吉久御蔵跡 江戸時代

 加賀藩の経済の基本は、領内の村単位で定められた免(めん)と呼ばれた課税率に応じて年貢として藩に収められる米であった。この年貢米は、藩の財政を担う御詰米(おつめまい)と家臣の給与となる給人米(きゅうにんまい)に大別され、御詰米を収納する藩営倉庫の「御蔵」と、給人米を取り扱う蔵宿が管理する「町蔵」とに保管された。
 砺波郡と射水郡に設置されていた各御蔵(現市内には、吉久のほか高岡古城内、伏木、能町、立野、戸出、中田などにあった。)に収納された御詰米は、春になると主に河川を利用して吉久、伏木の御蔵に川下げされ、伏木浦から大型の外海船(とかいせん)に詰め替えて江戸、大阪、金沢、松前などへ回送された。
 小矢部川と庄川が合流していた射水川河口(当時)の右岸に位置する吉久に御蔵が設置されたのは、寛文2年(1662)以前といわれ、文政9年(1826)には6棟36戸前の御蔵が置かれていた。吉久では御蔵成立後、この米の荷役のために人々が近郷から集まり、新たに吉久新村が形成されたと考えられている。
 伏木浦から各地へ回送された米は年間3~5万石あったが、小矢部川、庄川の両川筋の14箇所の御蔵のうち、この出船米約3万石の25%にあたる8,000石が吉久御蔵から積み出され、越中の御詰米の集散地として重要な役割を果たしていたことが伺える。
              (西照寺境内に設置の吉久御蔵跡案内掲示版より)


  
米地蔵 由緒 (通称 地蔵宮)

 (吉久に御蔵があった)江戸時代、小矢部川の入江が中伏木から吉久まで入りこんでおり、これを御米通路川と呼んでいた。この船だまりの水門あたり(消防屯所の北側あたりか)は、いつも水がうずを巻いていて、過って水に落ちてもいつも遺体があがらなかったという。あるとき、水に落ちた人を捜しにもぐった所、地蔵がみつかったのでこれを祀るようになったと伝える。(また、一説には、大洪水のたびに同じ場所に流れ着いたので祀ったと伝えられる)
  御堂(御宮の建方)には、浮彫の地蔵菩薩立像(室町後期)が一体、浮彫の阿弥陀坐像(室町初期)が一体、共に室町時代の古いものである。他に自然石が九体。これらを俗に米地蔵と呼んでいる。放地家の丸彫地蔵立像が一体合祀されている。
  遠い昔の地蔵祭りは、いかようになされたのか、知るよしもないが、明治の終り頃から昭和の初めにかけて、四月一日の祭りには吉久の餅撒とか、ヤマノの餅撒とか謂われ、近郷近在より多くの人々が集まり賑わったといわれる。餅撒の餅は、ヤマノ、マルハチ、カネサン等の倉々(米商)を廻って、寄附してもらった餅米をついて、オケソク(小さな餅)にして、二俵分を西照寺の屋根から撒いたが、俵にはワラも入れてあり中味は一俵分四斗ほどであった。中に赤、白と字の書いたものが混じっており、これを拾うと大きなおかがみがもらえた。この祭りは米穀商、百姓等田畑や米倉で働く人々の祭りで餅草(ヨモギ)を入れた草餅をついてたべた。餅草は、子供達が土手や河原へつみに出かけた。
  地蔵宮は初め大宮の境内にあったが、吉久に悪いことが続いたので御宮に地蔵様を祀るからだということで、明治の初め頃に今の消防屯所の所へ移されたと謂われる。スズメ竹や雑木林に囲まれて西に向いて御宮が建ち、細い石燈籠一対が有ったとい謂う。
  昭和二十六年のジェーン台風で御蔵町にあった青年会館が傾いたので、昭和二十八年にこれを取り壊した時、隣接した消防屯所も撤去し、地蔵宮を元の大宮の境内に移した。このとき、地蔵宮の瓦を取りはずして、ハサ木で木組をして消防団員がかついで西町を廻って、大宮まで運んだ。
  地蔵宮のあと地に消防屯所を新築した。このとき、石燈籠がどこへ行ったか不明。昭和三十七年公民館建築にともない地蔵宮は、御寺にあった方が良かろうということで、御寺の境内に移された。
  元地蔵宮にあったと謂われる古式の狛犬が一対大宮の拝殿にある。これには天文二十四年(一五五五)と刻まれており、これは室町末期になり地蔵宮建立以前の古いもので、どこかの神社仏閣にあったものが何かの由来があって地蔵宮に移されたと思われるが、何ら伝えるものが無い。
          「よっさ 神社と獅子舞」吉久獅子舞保存会発行より引用 
 
   


   
聖徳太子立像

   西照寺の釣鐘堂の横のコンクリートの御堂には、聖徳太子の立像がある。昔、伏木と吉久で石灰を焼いていた(製造)工場の人達が祀っていたか、その後、各自か独立して、別々の工場になったので、もう一体造って吉久の工場に安置した。
           「よっさ 神社と獅子舞」吉久獅子舞保存会発行より引用
 
     
 ※ 御堂は平成30年9月に解体、太子像は個室型合同墓(E)の中央に安置